迷い犬と過ごした1日

その犬に気がついたのは、居間のカーテンを開けた土曜の朝でした。窓越しにこちらを見てしっぽを振っている、小型から中型のあいだくらいの犬。チワワのように目が大きくて体毛は白と茶色。耳が長く垂れています。子どもたちが近づいても逃げる様子はなく、よく人に慣れていることから、飼い犬であることが想像できました。

犬は家の周りをフラフラと歩き回っていて、このまま放っておけば事故に遭うことも考えられます。犬を飼っている近所の数軒に訊ねてみるも、いずれも「このあたりでは見たことがない犬」とのこと。ですが、前日の夜から近くをウロウロしていたことだけはわかりました。

ひとまず手ぬぐいを首輪代わりにして、今日のところは我が家で保護することにしました。今思えば、この時点で私の気持ちは固まっていたのかもしれません。飼い主が見つからなかった場合、この犬を我が家で引き取ることを。私自身の気持ちは隠したまま、長女にこの犬をどうしたいかを訊いてみます。訊くまでもなく、長女のハシャギようから、どんな答えが返ってくるかは分かっていたのですが。

長女には「もとの飼い主が見つからなかったら、うちで飼うことにしよう」と言っておきました。飼い主が見つかる可能性は大いにあります。隣の市の動物愛護センターに電話をして、迷い犬についてどこに連絡すればよいかを訊ねました。引き取る前提で保健所に連絡すれば、もとの飼い主が一定期間内に見つからなかった場合、自分の犬として登録できることも確認できました。

開店したばかりのホームセンターで安物の首輪と鎖を買ってきてから、迷い犬を預かっていることを警察署に連絡しておきました。いまのところ、該当する犬を探しているという届出はないとのこと。月曜には保健所と市役所の生活環境課にも連絡する必要があります。

長女は水をあげたり自分の傘で日陰を作ってやったり、この犬を我が家に迎え入れることをとても喜んでいました。噂を聞きつけた近所の子どもたちが集まってきます。すでに名前を付けたらしく、「ベッキーはね…」などと話しているのが聞こえます。私は、“ベッキー”を飼うと長女に告げたことを、タイミング的に早すぎたかもしれないと後悔し始めていました。万が一飼い主が見つかってベッキーを返すことになれば、長女が悲しむことは目に見えています。

午後には雨が降りそうだったので、ベッキーをカーポートにつないでおきました。飼うことなったら犬小屋を用意しなければ。餌は人間の食べ残しで問題ないだろう……。このころには、すでにベッキーに情が移っていることを自覚していました。ベッキーが家にいるという前提で近い将来のことを考えながら。

ほとんど使われない固定電話が鳴ったのは、風呂に入る直前のことでした。警察署からで、窓口にベッキーの飼い主らしき人が来ており、詳しい特徴を確認したいので連絡先を教えてもよいかとのこと。かまいませんと答えて一度電話を切り、家族にベッキーの飼い主が見つかったかもしれないことを伝えます。長女は目に涙をいっぱい浮かべて「おとう…さん…」。次の言葉が出てきません。期待させるようなこと言ってしまってゴメンな。

その後、飼い主の方と連絡をとり、外見の特徴から間違いなさそうなので近くの公民館で待ち合わせることにしました。ベッキーの鎖を持って歩くのは、翌朝にベッキーと散歩をすることを楽しみにしていた長女。最初で最後のベッキーとの散歩になってしまったな。

意外にも同じ地区だった飼い主の方にはとても感謝されました。やはり昨日の夜から探し回っていたとのこと。飼い主の方が犬の本当の名前を教えてくれました。“ベッキー”でなくなった犬は、飼い主の方といっしょに家へと帰っていきました。

自宅に戻り、長女は「よかったね!」と笑顔で言いました。でも、電話があったときの様子から、犬との別れを悲しんでいることは分かります。それでも、何が正しいことなのか、なにが犬にとって幸せなのかということを理解しているのでしょう。犬と散歩をする予定だった日曜の朝、目覚めた長女はタオルケットをかぶり、声を押し殺して泣いていました。「おとうさん、…ベッキー……さびしい」。そう言ったのを最後に、長女は犬のことを話題にしなくなりました。

残ったのは使われることのなくなった鎖と首輪。犬に水を飲ませるためのバケツを片付けて、我が家に日常が戻りました。少し前と変わらないはずなのに、何かが足りないような日常。ベッキー、家に戻れてよかったな。そして長女、よくがんばりました。近い将来、鎖と首輪が役に立つようになるといいね。

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3 ええいーやー君からもらい泣き